日蓮仏法 キリスト教

奇跡の陰謀論Ⅱ この国の真相は役人天国だった 事実をもとにウラを暴くブログ

事実をもとに再構築この国の真相は役人天国。役人の悪を隠す既存の陰謀論ブログ。覚醒した民衆こそ本当の王者、もしも日蓮が平成の時代によみがえったら何を考え何をするのか?答えはここにある。

日蓮仏法=キリスト教?そ、そんなバカな話があるのか?あります。

読了までの目安時間:約 37分

 

 

日蓮仏法とキリスト教

 

そんなのどう考えても水と油だろうって

 

思いますか?

 

 

それが実はそうでもないんですね。

 

 

実はちょっと前にこんな記事を書いたんですね。

 

【法華経の行者】誹謗中傷は創価学会が正しい証拠 | 奇跡の陰謀論Ⅱ 創価学会と日蓮と陰謀論

 

で、その関連で法華経とか法華経の行者でちょっと検索してみたら

 

こんなサイトがヒットしたんですね。

 

法華経の大奇跡。信じる者は救われる?

 

以下引用

 

法華経、正しくは妙法蓮華経という。
インドで紀元1~2世紀ころ成立したといわれている大乗経典である。

 

そもそも大乗仏教というのは、原始仏教の、現世主義、常識理論から脱却してより、霊感的な
つまりはカルト的・超能力志向の仏教の分派である。

 

戒律や、語学論を重んじた一派は上座部を結成して、いわゆる小乗仏教といわれるものになった。
これはまた、南伝仏教とも言われて東南アジア方面に伝わったのはこの系統の仏教である。

さて大乗仏教は、チベットや西域、中国蒙古に伝わっていった。

 

当然日本にもこの系統が伝わることになる。

釈迦を久遠佛として永遠化した、つまりもう現実に居た修行者シャカではなくて
永遠の昔から存在した久遠仏として絶対化したのである。

 

当然この法華経に登場する釈迦も絶対者としての霊感者としての仏陀の得、霊的名お話が法華経である。

したがって原始仏教の研究がすすむと、

法華経の空想性や、霊感主義があまりにカルトであるために、

これは正しい仏教ではないとする学者も出てきたのである、

確かに原始経典、たとえば「スッタニパータ」などの教えからは

かけ離れた空想的な悟りと超能力のお話ばかりである。

 

スッタニパータでは、「誘惑に負けないで犀の牙のように一人で歩め」

「老人が若い妻を娶るのは修行のさまたげになる」とか、

そんな実用的な?教えというか処世術ばかりである。

 

法華経のように、この経を信じ、

授持するなら奇跡が起こるというようなことは一切かかれては居ないのである。

法華経神秘主義ともうべき教えがこの経の本体であろう。

不思議なこと神秘なことのオンパレードである、

ただし、法華経とは、この経を信じなさいとは書かれているが

では法華経ってどんなカテキズモなの?といわれても

そこんところは実は何一つ書かれていない。

 

法華経とは法華経はすばらしいですよということしか

書かれていないお経なのである。

どこがすばらしいのか。どういう教えなのか。

はついに一切明かされないで終わってしまうという摩訶不思議な経典なのである。

 

法華経、直訳すれば、「妙なる蓮の花の教え」となる。

法華経とは法華経というすばらしいお経がありますよということで

全編終始しているお経である。

 

しかしその狂熱的な信仰心と、

霊性で古来より多くの人をひきつけてきた。

 

聖徳太子、空海、最長、日蓮、道元、

近代では、宮沢賢治、石原莞爾、牧口恒三郎、など、

仲でも宮沢賢治はその遺書で
「私の使命はこのお経を広めることでした』と告白するほどの熱心さだった。

 

その童話は法華主義の広報宣撫であったというのである。

この人を魅了する秘密は何だろう?

ほかの経典にはない特徴である。
こんな仏典は他にはない。

一言で言えば壮大な久遠佛たる、世尊が描き出す宇宙にその魅力がある。
そしてそのカルトな霊的超能力の宣布である。
各人が久遠佛であり、人は誰でも超能力者である。

 

それに気が付けばすぐにでも人は無限の宝蔵から

その能力をくみ出して使えるのだという教えはかなり魅力的だろう。

 

「あなたはまだ気が付かないかもしれないが

実はあなたの中には無限の宝が内臓されているんだよ」

、と。教えるお経はほかにはないからである。

 

そして信心の功徳として、

心のそこから信じるなら何でもできるととくお経も他にはない。

 

観音様を信じるなら刀で切られても一切傷つかない、

海に落ちてもおぼれない、火に焼かれてもまったく平気である

そう説くお経もまた、他にはありえないからである。

 

こうした超能力、信仰心の功徳。個人の久遠佛化、壮大な宇宙観、
などなどが多くの悩める人々をひきつけたのであろう。

 

「法華経とはまるでからくり箱のようなものだ。

剥いても剥いても出てくるのはより、小さな空き箱ばかり、

とうとう最後の小さな箱を開けてみればその箱も空き箱だった」

そういう人がいる。

私もそう思う一人である。

 

法華経という経典は

教えを説かない経典である。

原始経典の「スッタニパータ」などは明快に教えを説いているのとは大違いだ、

法華経のどこを読んでも教義が書かれていないのだ。

書かれているのは久遠佛の壮大なファンタジーな幻想世界であったり、

あるいは法華経の根本教義とは関係のない?たとえ話、

ばかりである。

 

あるいはこの経典(法華経)を奉じるものは救われるとか

この経典は素晴らしいとかの称賛ばかりである。

 

たとえば

常不軽菩薩のたとえ話がある、

彼は誰に対しても私はあなたを軽んじませんといって

誰にもお辞儀して回ったという、

これで彼は悟りを開き成仏、菩薩になることができたという、

で、常不軽菩薩という、

これだけでは法華経の根本奥義はいまだわからないままである。

法華経を全編読み通してみても

結局根本教義は明かされないままで終わる、

まあ久遠仏という現実のブッダを神格化した存在に祭り上げるには

下手に教えを安易に説いたのではだめだということなのであろうが

それにしても何一つも教えとか教義らしきものは書かれていないのが実態である。

 

では何が書かれているか

それは

この経典は素晴らしい、

この経典を信じなさい。

この経典を信じれば切られても死にませんとか

高いところから落ちても怪我一つしませんとか、

そして延々と続く久遠仏の壮大なファンタジーワールドの描写、描写、、、。

 

さらには

意味深なたとえ話ばかりである。

三界火宅、衣裏宝珠、長者窮子、などなど、、、。

 

まあ。

そんなに簡単には根本奥義は教えられませんよという

事なのかも知れないが

これでは

法華経の真実は

読んだ人各自が

勝手に?

これだといえばそれでも

OKということにもなりかねない。

 

事実こうしたあいまいさが

後年

法華経の解釈に

影響して

曲かいして?独自の

独善的な宗派を作り出したということも否めまい。

 

何しろ

法華経の教えはこれですということが

全く法華経自体に述べられていないのであるから

仕方のないことでもあるが。

法華経を読んで各自抱いたイメージが

それが法華経の真実一乗なのかもしれない。

 

だから、

私にとっては法華経とは

こんなイメージだ。

(以下、まったく私の個人的な解釈であることをお断りしておきます}

人間とは気が付かないが

実は誰もが久遠仏の分身を宿しており

誰でもほとけになれうべき存在なのである。

 

しかし

殆どの人はそのことに気づきもしないで

無駄に一生を終わってしまうのが現実の哀れさだ、

だから一日も早く気づきなさい、

あなたは本当は佛なのですよ。

そして久遠佛の素晴らしい永遠世界で永遠の悟りの世界に活きるのですよ。

 

私にとっては法華経とはこんな奥義の

経典であると信じている。

その意味では

私は法華経信者であると言えるだろう。

法華経の最奥真理はただ一つ。

この経を信じる者は救われるということである。
1点の疑いも持たずとにかく信じなさい。
そうすればとんでもない奇跡的な救いが訪れるというものである。

まさにカルトそのものである。

 

で、その経の内容とは、どんな教えなのかというと、
法華経には何も書いてないのである。
とにかく信じなさい。
この経を受持しなさい。
それだけである。

それが延々と続くだけである。

 

法華経の中に観世音菩薩普門品という章節がある。
これは独立して、観音経とも言われる。
観音様信仰の根本経典である。

この観音経に
観音様を信じれば、
刀に切られても一切傷つかない。
海に落ちても決しておぼれない、
観音様はどんな困難苦境も必ず救ってくれるとある。

ただし、もしほんの少しでも疑念を抱いたら、
それは達せられないという。

とにかく信じなさい、
そうすれば救いは無限であるというのが法華経の教えである。

 

観音霊場はこの観音様の絶大な救世救人の力に対する信仰から広まったのである。

 

法華経には、かく救われるというたとえ話が非常に多い。

こうした法華経の要点は
1、人間全て仏性を持っている、
2、宇宙には広大無辺のエネルギーが満ちている。
3、霊魂は永遠である。
4、菩薩行こそ人間の使命である。

 

例えば、長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品) のたとえがある。

幼少の時にかどわかされて家を出たまま、

困窮して諸国を放浪していた長者の息子が、

ある日運命に導かれて、父である長者の城に至り、

その城で長者の子供であることを知らずに掃除夫として働くことになります。

長者は勿論初めて見た瞬間に自分の息子と分かったのですが

だまってその成り行きを見守ったのです。
息子は二十年間、真面目に仕事をして信用を得、

長者の財産の管理を任せられるまでになります。

そのうち臨終の近づいた長者は親族・国王・大臣などの前で、

この息子が自らの子供であることを明かし、一切の財産を譲ることを宣言します。

 

これは人間誰でも凄い能力を持っているのだが、

いかんせん、、それに気がつかずに一生終わってしまうことが多いというたとえばなしである。

貴子流離譚のお話でもある。

生まれ尊い子どもが故あって諸国を放浪し苦難の道をたどり

やがてその身分がわかって幸せになるという、民話のパターンである。
そうだ、貴方も長者の息子なのだよ。それに気がつかないだけなんだよ。
早く気がついて長者の道を歩みなさい。そう仏陀は教えているのである。

 

法華経には、また、衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品) のたとえ話がある。

 

ある貧しい青年が富豪の仲間の下に遊びに行った。

仲間はその貧しい青年を歓待し酔いつぶれるまで飲み明かした。

しかし富豪はその夜に商用で遠くに旅だたなければならなかった。

で、その酔いつぶれた青年を哀れと思い誰にも知らせずに

そっと青年の衣服の裏に宝珠をいくつか縫い付けておいて旅立ったのである。
さてあくる朝目覚めて青年は富豪が旅立ってしまったことを聞かされて

すごすごとそのお屋敷を後にしてまた、

放浪のたびを続けるしかなかったのだった。

衣の裏に、とても高価な宝珠をそっと縫い付けておいたことなど露知らずに、

諸国をさ迷って、今,こじき同然になって

再び富豪の住む御屋敷の前を通りかかったのである。
それを見つけた富豪は、驚いて呼び止め、

「一体君は何をしてるんだ。僕が君のために服の裏地に縫い付けた宝珠に気がつかなかったのかね?

あれを売れば一生でも十分なお金になろうというのに」と、告げたのである。

 

このように人はどんな人でも衣の裏にとんでもない宝珠が隠されているのだが、

ただ、それに気がつかないのである。

気がつかずに貧しく一生を終わってしまうのである。

気がつけば今生の貧弱から、すぐにも開放されるのに。
悲しいかな、誰も自分の衣の裏にそんな宝があるなんて思いもしない。そうして一生を
貧窮と後悔で送って終わってしまうのだ。
光明の知恵あるブッダは、
「早く気がつきなさい、そうしてそれを見つけて一刻も早く豊穣を手に入れなさい」
とおしえているのだ。

 

以上
信じるか?

信じないか?

それはあなた次第ですよ。

 

 

そうなんですよね、

 

実際、法華経はわけの分からない経典なんですよね。

 

どうしてこんなわけの分からない代物が作成されたのか?

 

どうもそれはキリスト教に対抗するためだったようです。
法華経と聖書――その類似

 

以下引用

 

 

法華経の三大思想はなぜこうも聖書に似ているのか。


日蓮。彼は法華経に帰依(きえ)することを広めた

法華経=日本仏教のバイブル

法華経(ほけきょう)は、いわば日本仏教におけるバイブルのようなものとして、

古くから宗派の別なく、仏教徒の間で読まれてきた経典です。
法華経は、日本でははじめ、叡山(比叡山の略称)の天台宗において研究されました。

法然、親鸞、道元、日蓮など鎌倉新仏教の祖師とされる人々も、

一度は叡山の学僧となりましたから、彼らはみな法華経にふれています

彼らのうち、とくに道元と日蓮は、最後まで法華経と深い関係を持ちました。
道元の著した『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)には、法華経の言葉が数多く引用されています。

また彼は、病重きを悟ったとき、法華経の詩句を口に唱えながら、死に対する心の準備をしたといいます。

一方、日蓮は、法華経をシャカの唯一の真の教えとし、「南無妙法蓮華経」の題目を説き、法華経信仰を広めました。

彼はまた、自分を「法華経の行者(ぎょうじゃ)」と呼び、苦難の中でも法華経信仰に生きました。
法華経は、仏教の発祥地インドでは、ほとんど見向きもされなかった経典です。

しかし、大乗仏教の伝わった中国や日本では、非常に重要視される経典となりました。
今日、中国の大乗仏教はほとんど消滅状態にあるので、日本は、

法華経が今なお篤く信奉されているほとんど唯一の国です。
天台宗では、法華経を"第一の"経典とし、日蓮宗では、法華経をシャカの"唯一の"真の教えとしました。

こうした宗派では、法華経は絶対的な権威を持った経典なのです。
近代の仏教系新興宗教の中にも、法華経を信奉するものが、数多く現われました。

「霊友会」「立正佼成会」は法華経信奉団体ですし、「アメニモマケズ」の宮澤賢治も法華経信者でした。
彼らの"法華経信仰"すなわち"一書に対する信仰"は、

ある意味では、クリスチャンの"聖書信仰"にも比べられるものです。

クリスチャンが聖書のみを信仰の拠り所とするように、

日蓮・法華信奉者においては、法華経のみが信仰の拠り所とされているのです。


日蓮臨終の時、枕頭にかか
げられたとされる大曼陀羅。

法華経は一~二世紀に記された

法華経の現代語訳は、岩波文庫に収録されているものを見ると、上中下の三巻となっています。

しかし、その半分のページは漢訳と文語訳に占められ、また注も多いので、

本文の現代語訳そのものは文庫本一冊程度の分量です。
それはちょうど、マタイ・マルコ・ルカの三福音書を合わせた程度の分量に匹敵します。

ですから、それほどの量ではなく、読もうと思えば誰でもすぐに読み通せるでしょう。
法華経は、いつ頃記された経典なのでしょうか。

学者によると、西暦一~二世紀にかけて記されたとされています。

立正大学の田村芳朗教授は、こう述べています。
「方便品第二から授学無学人記品第九までを第一類とし、西暦五〇年頃の成立と見なし、

法師品第一〇から囑累品第二一までと序品第一とを第二類とし、

西暦一〇〇年頃の成立と見なし、薬王菩薩本事品第二二から普賢菩薩勧発品第二七までを第三類とし、

西暦一五〇年頃の成立と見なす」。
法華経は、西暦五〇年~一五〇年頃に記された、とされているのです。

それまで口伝で伝えられていたものを、

経典としてまとめた、というわけです。
シャカが在世した時代は紀元前六世紀ですから、

法華経はシャカの死後、じつに約六〇〇年もたって記されたことになります。
実際、現代の学者がインド原典について調べた結果、

法華経の原典に出てくる単語はシャカの時代のものではなく、

ずっと後世のものであることもわかっています。

これはちょうど、二〇世紀に生きる人が、一四世紀の人物・・

たとえば後醍醐天皇の伝記を書くようなものです。そんなに昔の人物に関して、

正確なことを書くことがいかに困難であるかは、ちょっと想像してみただけでもわかるでしょう。
これに対し聖書・・たとえば新約聖書は、イエス・キリストの在世された時代である西暦一世紀の間に記されました。

とくに新約聖書の福音書は、イエス・キリストの直弟子たちによって記されたものです。
イエス・キリストと寝食を共にした弟子たちが、

自分の見聞きしたありのままを記しました。

新約聖書の書簡も、キリストの直弟子や、

キリストから直接啓示を受けた者(使徒パウロ)によって記されました。
このように新約聖書は、

キリストの在世された西暦一世紀の間に、キリストを実際によく知っていた人々によって記されたのです。

これは、シャカの死後六〇〇年もたって後世の人々が記した法華経とは、著しい対照をなしています。

法華経はシャカの直説ではない

ここで、六〇〇年も後に記された法華経が、本当にシャカの言説そのままなのか、

という疑問が当然わいてきます。これについて、田村教授(仏教徒)はこう述べています。
「キリスト教ではバイブル一冊なのに、なぜ仏教では、いくつもの経典ができあがったのか。

・・・・合理的な批判精神の発達した現代人なら、すぐ察しがつくように、

経典の多くは、シャカなきあと、長期にわたって仏教徒が作りあげていったものだろう、ということである。
経典を読めば、現実とかけはなれた空想的な事柄やフィクションでいっぱいなことを知るので、

『法華経』とても例外ではない。

これだけでも、後世の産物であることがわかる。

では、仏教徒が勝手に作り上げたと一見してわかるものを、

どうしてシャカの言説としたのだろうか。

悟りを開いてブッダ(仏陀)となったシャカの名を語るわけであるから、

あつかましいと言えば、これほどあつかましいことはない。

この点については、いろいろと理由が考えられているが、

その一つとして、インド人は歴史というものに関心が薄かったからだとされる。・・・・」

当時のインド人は、現代の欧米人や日本人とは違い、

歴史を正確に保存しなければならないという意識が、きわめて希薄でした。

実際、インドには歴史書がないと言われます。
インド人は、自分の新しい考えを述べようとするとき、

著者を自分とはせず、あたかも過去の偉大な人物が語ったかのように記すのが、常でした。

今日で言えば歴史の歪曲にあたりますが、当時のインド人の間ではそうしたことは日常的であり、

とくに責められることもなかったのです。
こうして、後世の仏教徒の作である法華経も、シャカが語った言説とされました。

田村教授は言っています。
「インドの仏教徒たちは、シャカについていえば、

その歴史的な事実に興味はなく、

ひいては後世の作である経典を、シャカの言葉や教説としてはばからなかった」。
仏教の経典には数多くのものがあり、

それらはどれもシャカの語った言説という形をとっていますが、

互いに教えが矛盾しています。本当にシャカが語ったものなら、

どれも同じ教えのはずなのに、経典ごとに教えが違っているのです。
これは大乗仏典というものが、じつはシャカの説いた直説ではなく、

後世の仏教徒の作であるからなのです。
こうした事情は、キリスト教ではどうでしょうか。

キリスト教では、六六巻から成る聖書が「正典」とされています。

しかし、じつはこれ以外にも、

「外典」「偽典」と呼ばれる書物が存在しています。

たとえば私たちの聖書には、

マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書が収録されていますが、

じつはこれ以外にも、聖書中に収録されなかった

『ナザレ人福音書』(二世紀)、『エビオン派福音書』(二世紀)、

『ヘブル人福音書』(二世紀)、『エジプト人福音書』(二世紀)、

『ペテロ福音書』(二世紀)、『トマス福音書』(二世紀)、その他の『福音書』が存在しています。
けれども、これらはみな、キリストを直接知らない後世の人々が記したものなので、

キリスト教会はこれらの書物をみな、聖書正典から除外しました。

これらは神の霊感を受けていない、としたのです。
もしキリスト教会が、これらの書物も『聖書』正典としていたら、

キリスト教の教えは仏教界と同様に混乱したものとなったでしょう。

しかしキリスト教では、信頼に値しないものは、正典に入れなかったのです。
また反対に、もし仏教界が、キリスト教会のとったような取捨選択を行なっていたら、

仏教界の混乱は避けられたかもしれません。

しかし、シャカ自身の記したものや、シャカの直弟子たちの記したものは何も残っていないので、

それもできなかったのでしょう。


キリストは久遠実成(くおんじつじょう)
の救い主である ホフマン画

自画自賛の法華経

つぎに、法華経の内容について見てみましょう。
法華経には随所に、法華経自体に対する賛辞の言葉が記されています。たとえば、
「私(シャカ)の滅後(死後)、この経を信じ、他者のために生き、

努力するなどの行ないをする者は、その功徳は大空が地をおおうほどのものである」
「人々の中にあって、もし法華経を信じ、あるいは読み、唱え、説き弘め、書写する者があれば、

その眼、清浄にして八〇〇〇のすぐれた能力を獲得するであろう。

その者は、全世界の何であれ、くまなく見ることができる。

下は地獄から、上は神々の世界に至るまで、

そのなかの一人一人の様子をも明らかに見る眼を持つであろう」。

これらはほんの一部ですが、法華経自体が、

法華経を信じる者に説いている功徳の例です。

法華経は、こうした自画自賛に満ちているのです。

『日蓮の本』(学研)と題する解説書には、こう記されています。
「法華経には、常識的な考えではとんでもないような空想的な話が、

次から次へと出てくる。それよりも不思議なのは、

法華経というありがたい経典があると、法華経の中で説かれていること。

遠い昔から多くの仏が説いてきた究極の経典が法華経であり、

信じる者には無限の恩恵が与えられると、繰り返し語られている。
しかし、そのありがたい法華経自身の中身は何かとなると、

まったく語られていない。こういうのを自画自賛というのかも知れないが、

法華経が法華経をほめちぎった経典が、いわゆる法華経という変なことになっているのである」。
法華経の内容は、大部分が自画自賛で、肝心の中身はほとんどない、

と感じた人々は昔から多くいました。これがいわゆる「法華経=無内容説」で、

かつてそれを説いた一人に、平田篤胤(ひらたあつたね 神道家、一九世紀)がいます。

彼は、法華経は"中身のない能書き"だと評しました。富永仲基(儒学者、一八世紀)も、
「法華経は自画自賛ばかりで、教理らしきものがなく、経と名づけるに値しない」
と言っています。現代の仏教学者の中にも、法華経には理論というものがない、と評する人が少なくありません。

田村教授も次のように述べています。
「法華経にざっと目を通してみると、効能書きのみで内容がない、

との感を受ける。前半では教説らしきものが見えるが、分析的でなく、精密な理論の展開は存せず、

後半になると、盛んに法華経を信奉することの功徳が説かれてくる。
極端な言い方をすれば、法華経とは法華経の賛嘆でしかない、ということである。

法華経とは何か、ということは語られていない」。
たしかに法華経は、教理を説いた所が非常にわずかです。

しかし、全くないわけではなく、

幾つかの新しい思想も説いています。

 法華経には、おもに三つの新しい思想があると言われています。

それらは「一乗妙法」と呼ばれる万人成仏の思想、

久遠本仏」と呼ばれる永遠の救い主の思想、また「菩薩行道」と呼ばれる実践論です。

「一乗妙法」とは、すべての人を平等に成仏させることのできる唯一の教えを意味します。

「一乗」は"ただ一つの乗り物"の意味で、法華経の教えのことです。

法華経が記された当時、「声聞」と「縁覚」は仏になれない、という考えが広まりつつありました。

しかし、声聞も縁覚も菩薩も、みな平等にただ一つの教えによって成仏することができる

・・それが法華経の教えだと、説かれたのです。それが「一乗妙法」です。

つぎに「久遠本仏」とは、シャカは"永遠の仏"であるという教えです。

シャカが二九歳で出家し、三五歳の時に悟りに達したというのは仮の姿であった。

シャカは実は"久遠の昔"・・永遠の過去にすでに仏になった者なのだ、という思想です。

シャカは、過去・現在・未来にかけて、永遠に人々を教化し続けている、とされました。

法華経において人間シャカは、

"永遠の仏""永遠の救い主"に昇格させられ、いわば"神格化"されたのです。
もう一つの「菩薩行道」は、法華経を広めることが成仏のための行(ぎょう)だという教えです。

「菩薩」とは仏の候補生のことで、

やがては仏になるが、今はそのために修行を積んでいる者のことです。
菩薩は、布施(分け与える)、持戒(戒律を守る)、

忍辱(迫害に耐える)、精進(実践する)、禅定(心を安定させる)、

智恵(真理を知る)という六つの教え(六波羅蜜)を守る必要があります。

しかし法華経は、これら六つの教えも推奨するものの、さらにはるかに重要なのが、
「この経を弘めること」
だと主張しているのです。すなわち、法華経の宣布を、

菩薩行の最大のものとしたのです。

法華経の思想と共通するものをすでに聖書が説いていた

このように、「一乗妙法」とはすべての人を平等に救うことのできる唯一の教えがあるということであり、

「久遠本仏」は永遠の救い主がおられるという教えであり、

また「菩薩行道」は人生において伝道が非常に重要であることを説いたものです。
このように考えてみると、

これら法華経の三大思想は、聖書の教えとの間に明確な共通点を持っていることがわかります。

これら法華経の三大思想と本質的に共通するものを、すでに聖書が説いていたのです。

まず、"すべての人を平等に救うことのできる唯一の教えがある"ということから見てみましょう。
聖書は、声聞・縁覚・菩薩というように、

人々の能力によって教えを変えるようなことが、もとよりありません。

すべての人に対して、ただ一つの教えを説き、その教えによってすべての人は平等に救われると説くのです。

その教えとは、神の御子イエス・キリストを自分の救い主と認め、

その十字架による罪の贖いを信じ、彼に従っていくことです。

この教えに従うなら、だれでも救われます。
そこには、声聞・縁覚・菩薩というような別はありません。

国籍や、老若男女の別もありません。幼児でも、障害者でも、病人でも、

ただ一つのこの教えによって救いに入るのです。

聖書は言っています。

だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(二コリ五・一七)。

聖書は、一乗妙法を説いているのです。
つぎに、"永遠の救い主がおられる"という教えはどうでしょうか。

これも、聖書が説いているところです。
救い主イエス・キリストは、久遠の昔から永遠の未来まで生きておられるかたです。

彼は万物の存在するようになる前から存在し、また永遠の未来まで存在されます。

「御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロ一・一七)。

聖書では、永遠の救い主がおられ、その方はイエス・キリストである、と説かれているのです。
では、永遠の救い主は聖書でキリストとされ、

法華経ではシャカであるとされているのは、なぜでしょうか。
先に述べたように、法華経は西暦五〇年以降に記されました。

当時のインドには、すでにキリストの一二弟子の一人トマスが、伝道に入っていました。

このことは、NHKの番組「シルクロード」の中でも述べられました。

番組によると、インドのケララ州においては

人口のいまだ五分の一がキリスト教徒であり、

彼らは自分たちのことを「トマ(トマス)の子」と名乗っているとしています。
トマスが建てたと言われる教会も現存しています。トマスはまた、その後中国へも伝道に行ったとのことです。


インドの聖トマス教会(チェンナイ=旧マドラス)
もともと使徒トマスがこの地に教会をつくった。
トマスのキリスト教思想の
仏教的焼き直しが法華経である。

 この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、

キリスト教のイエス・キリストに関する教えは少しずつ入り始めていました。
こうした事情から、他宗教に対抗しなければならないという思いを持った仏教徒の中には、

人間シャカを"永遠の救い主"に昇格させ、神格化しようとする者が現われました

インドの高名な宗教学者アーマンド・シャー博士によれば、

キリストの使徒トマスの福音に対抗して、

シャカを聖人から救い主に昇格させたのが大乗仏教である、とのことです。
つまり"シャカは永遠の救い主である"という法華経の教えは、

"キリストが永遠の救い主である"という聖書の教えの、

仏教的"焼き直し"なのです。
最後に、"人生において伝道が非常に重要である"という教えはどうでしょうか。

これも、聖書の教えです。
イエス・キリストは、昇天される前に弟子たちを集めて言われました。
「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい

そして父・子・聖霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け、

またわたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタ二八・一八~二〇)。

キリストは、福音宣教を私たちの第一の義務とされました。

私たちは福音宣教を実践することによって、神の子としての愛と義務を全うします。
そしてこの福音宣教は、神からの啓示の書物・・聖書に土台していなければなりません。

聖書にこそ、救いに必要な知識が十全な形で記されています。

"聖書の伝道"こそ大切であり、それを行なう者には、

神からの豊かな祝福が限りなく注がれるのです。

人々が仏教の名のもとに求めてきた
ものの究極は聖書の中にある

これらのことから、私たちは何を結論することができるでしょうか。
私たちは、法華経を通して人々が本当に求めてきたものは、

じつは法華経の中にではなく、聖書の中にこそある、と知ります。
すべての人を平等に救うことのできる唯一の教えは、聖書の中にあるのです。

聖書のみが、真に実在される永遠の救い主について、述べています。
それは神の御子イエス・キリストです。

また聖書を信じ、聖書を宣べ伝える者に、神の祝福は限りありません。
人生の答えは、聖書の中にあります。

人々が仏教の名のもとに求めてきたものの究極は、聖書の中にあるのです。

 

おまけでこちらも紹介しておきます。

 

日蓮宗とキリスト教|日々是好日

 

法華経とキリスト教(イスラエル的信仰) 大祓の国/ウェブリブログ

 

 

もうこうなると日蓮仏法=キリスト教って断言してもいいくらいですね。

 

いいところも悪いところも瓜二つ?

 

一部で世界統一宗教を作るなんて話があるようなんですが

 

その話をはじめて聞いたとき

 

そんなのキリスト教と日蓮仏法をごちゃ混ぜにするのかな?と思ったんだすが

 

実際そういうことなのかもしれませんね。

 

 

 

 

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